2013年11月21日木曜日

BBC Radio 4 - Curlew River

BBC Radio 4で制作されたドキュメンタリー「Curlew River」にちょっとだけ出演いたしました。あと5日ぐらいは聴けるみたい。もしよろしければ、ぜひ!

http://www.bbc.co.uk/programmes/b03hvqlf

2013年11月18日月曜日

ストラヴィンスキー/ニジンスカ バレエ・カンタータ《結婚》

ストラヴィンスキーのバレエ・カンタータ《結婚》は、音楽を聴くだけでも、クラシックにもこんなすげー曲があるんだぜ、なめんなよ、っていう気持ちにさせてくれる、ものすごくインパクトの大きな傑作なのだが、そこにオリジナルのブロニスラヴァ・ニジンスカの振り付けがつくと、もう、むかうところ敵なし、というくらいに、すごい。

ある意味で、総合芸術の夢を追求したバレエ・リュスの集大成といってもいい作品だと思う。

11月17日、新国立劇場の「バレエ・リュス ストラヴィンスキー・イブニング」の最終日に足を運んだ。学生時代にパリ・オペラ座バレエ団の映像を観て衝撃を受けて以来、いつか生の舞台でニジンスカ版の《結婚》を観てみたいという長年の夢が実現し、本当に大満足だった。

若い新国立劇場のバレエ団の群舞も、ものすごくきれがよく、かっこ良かったが、合唱団も負けてはいない。力強い声といい、精度の高いアンサンブルといい、いつもながら、本当にすばらしかった!

それにしても、独特な作品だ。

ロシアの農村の伝統的な結婚儀礼にもとづくテクストを呪文のように唱える合唱。ひたすら冷徹に変拍子の複雑なリズムを刻み続ける4台のピアノと打楽器群。儀式的な身振りと民俗的なステップを取り入れながらも、舞台上に次々と構成主義的なフォーメーションを作り上げていくニジンスカの振り付け。そして、白と焦げ茶のシンプルな民族衣装に身をつつみ、その独特な振り付けを無表情な顔でひたすら踊り続ける男女の踊り手たち…


結婚("Les Noces"とタイトルが複数形となっているのが重要)、といいながらも、そこに展開するのは、もっと根源的な、人間という存在そのもののドラマだ。

プログラム冊子の解説には、この独特な作品(特にニジンスカの振り付け)の背景には、当時の「ソヴィエト=ロシアの労働者賛美」があると解説されていた。このあたりのことは調べてみると面白そうだ。プログラム冊子にはまた、「ロシアの農村に見る結婚儀礼」というエッセイも載っていて、作品のバックグラウンドを理解する上で、とても勉強になった。

また、いつか、近いうちに、再演される日が来るといいのになあーーー

2013年9月4日水曜日

イギリスの旅(2013年8月19日〜27日)前編


コッツウォルズのドーヴァー・ヒル(Dover Hill)にて。

こちらはモールヴァン・ヒルズ(Malvern Hills)。
コッツウォルズよりさらに北西に行ったところにある丘陵地帯。
エルガーが愛した場所です。
カズオ・イシグロの『夜想曲』にも、ここを舞台にしたお話が出てきますね。

今回の旅では、いろいろと高い場所に挑みました。
ほんとは高所恐怖症なのですが(笑)

モールヴァン・ヒルズの小さなカトリック教会に眠るエルガー夫妻のお墓。

コヴェントリー大聖堂。
第2次世界大戦中にドイツ軍の爆撃により破壊され、
その廃墟のかたわらに、建築家バジル・スペンスの設計によって再建されました。
ブリテンの《戦争レクイエム》はその完成を記念して、
1962年にここで初演されています。

2年ぶりのグラインドボーン音楽祭!

今年は、ブリテンの《ビリー・バッド》を観ました。
Michael Grandageの演出(2010年の再演)。本当に素晴らしかった!
感想はまた改めて。

***

後編に続きます。

2013年8月30日金曜日

Christian Blackshaw ピアノ・リサイタル(Snape Maltings)




お目当ての演奏家のリサイタルや、なじみのオーケストラのコンサートに行く、というのもいいけれど、たまには旅先で、なりゆきにまかせるままに、その土地で開かれている演奏会に、足を運んでみるというのもいい。

いつも、というわけではないが、ときに思いがけなく、幸せな出会いをもたらしてくれることがある。旅、というものが、未知との出会いを約束してくれるものであるように。

先週、1週間ほどの日程で、友人とイギリスを旅行した。ブリテンの生誕100年ということで、一種の巡礼の旅、というか、グラインドボーンで《ビリー・バッド》を観たり、ローストフトにある(今は、"Britten House"というB&Bになってしまっている)ブリテンの生家を訪れてみたり、モールヴァン・ヒルズの小さなカトリック教会に眠るエルガー夫妻のお墓や、ナショナル・トラストによって最近公開されたレイス・ヒルにあるヴォーン・ウィリアムズの邸宅を訪問したり、そして、最後にはお約束のオールドバラに行ったりと、車での旅ということもあり、思う存分に、旅を満喫した(写真は、またアップします)。

旅の最終日(8/25)、スネイプのモールティングスで、ピアノ・リサイタルが行われるのを知り、せっかくだからと思って、行ってみることにした。

ピアニストの名は、クリスチャン・ブラックショウ。寡聞にも、イギリスにこんなに素晴らしいピアニストがいるなんて、知らなかった。

1949年生まれというから、今年、64歳になる。家族のためにキャリアの半ばでコンサート・ピアニストとしての活動をいったん休止し、最近になって活動を再開したのだという。そうした事情もあってか、録音もほとんどないようだ。もしかしたら、まだ知る人ぞ知る、という存在なのかもしれない。しかし、会場には、彼のピアノを聴こうと、多くの聴衆が集まっていた。

プログラムは、モーツァルト(幻想曲 ニ短調 K.397とソナタ ニ長調 K.576)、シューベルト(ソナタ イ短調 D.784)、そして後半にシューマン(幻想曲 ハ長調)。1曲目に演奏されたモーツァルトのニ短調の幻想曲の出だしのアルペッジョから、彼の音楽にぐっと引き込まれていった

繊細かつ細心の注意を払って選び抜かれた、一音一音の表情。息をのむような弱音の美しさ。決して崩れることのない、レガントな音のたたずまい。そして、作曲家の書いたものが、そのまま音の向こう側に透けて見えるような、どこまでも透明な詩情。

ピアノを弾くピアニストは、この世界に、ごまんといる。しかし、本当の音楽を聴かせてくれるピアニストに出会えることは、めったにない。彼は、まさしく、そうしたピアニストだった。

それと、スネイプ・モールティングスの響きの素晴らしかったこと!

ここはモルト工場だった建物を改築して造られたコンサートホールで、ブリテンゆかりの場所でもある(1967年に、オールドバラ音楽祭の会場としてオープンした)。

もともとモルト工場だっただけあって、れんが造りで、天井は高く、床はコルク、シートは籐で編まれたもの。すべてが自然の素材で出来ている。もちろん、サフォークの独特の風土というものもあるのだろうけれど。複雑な構造体など作らなくとも、それだけで十分なのだ。

旅の終わりに、忘れられない夜となった。


2013年7月20日土曜日

「弱さ」を引き受けるということ




うちの近所は、今日も盆踊り大会です。ちなみに今日で3日連続。平和な土曜日です。

で、外から聞こえてくる「東京音頭」などにぼんやりと耳を傾けながら、「あー、明日は日曜日かあ」、などと考えているうちに、昔、大学院時代にゼミで読んだ、イタリアの哲学者ジャンニ・ヴァッティモの「弱い思考 pensiero debole」のことを、ふと思い出しました。えーっと、もう10年ちかくも前のことになるのか。なつかしい。


「弱い思考」って言っても、「思考力が弱い」っていう意味ではないですよ。ここで言う「弱さ」には、肯定的な意味合いがあります。ヴァッティモが言う「弱さ」というのは、簡単に言えば、他者を認めることであり、多様性を肯定することなのです。


それで、ヴァッティモが言っていることと少しずれてしまうのかもしれないのだけれど、いまのわたしたちに必要なのも、自分たち自身の「弱さ」を素直に引き受けることではないかな、などと、ちょっと思ったのです。


自分は弱いと認めれば、他者を認めることができる。相手の立場にたって考えることもできる。


しかし、「いんや、自分は強いんだ」、などと空威張りしている間は、それは無理なんじゃないかな。何だか、このところ、そこら中で、きな臭い言説が跋扈していますが、最近のわれわれの社会が取り憑かれている「病い」の根っこは、そこにあるのではないか。


僕の暮らす界隈は普段はいたって平和なところですが、そんな町に暮らしていても、このあいだ、交差点の向こう側に、プラカードをもって、旧日本軍の兵隊のような格好をした青年が立っているのを見たときは、ぎょっとしました。どこかで排斥主義のデモにでも参加してきたんでしょうね。


あるいは、社会のあちらこちらで表面化している、何だかギスギスした感じ。でも、「景気」が良くなれば、それがなくなるという感じでもない(むしろ悪化するような)。そして、ひとびとを分断し、他者への敵意をあおるような言説が政治家たちから発せられたりする。わたしたちの社会が、包容力を失ってしまっている証しなのではないか。


自分たちの社会の多様性をまっすぐに見つめ、そこに生きるさまざまなひとびとの「生」を肯定すること。こう書いてみると、拍子抜けするぐらいに当たり前のことです。でも、その当たり前が難しくなりつつあるという現実がある。いまのわれわれにとって、社会の基盤は、そうした多様さを包含することができる大らかな「弱さ」にあるべきなのではないかなあ、などと考えてみたわけです。


えー、「東京音頭」の次は「炭坑節」ですか。楽しそうだなあ。思い切って、飛び入り参加してみようか。


いつまでも、ひとびとが自由に、踊りを踊ったり、音楽を楽しんだりできる社会であってほしいな。ごくごく素朴な願いですが…。


2013年7月5日金曜日

"I hear those voices that will not be drowned"



写真は、去年、サフォーク州のオールドバラ近隣の小さな町、オーフォードに行った時に、波止場からとった一枚。オーフォードのあたりは、オルド川下流域(オー川 River Ore)の潮のさす干潟と、曲がりくねった入り江が独特の風景を作り出している。遠くに見えているギリシア神殿みたいな影は、かつて核兵器研究所(AWRE)の実験施設だった建物。もちろんいまは使われておらず、廃墟になっているが、このあたりには、他にも第二次世界大戦中や冷戦時代の遺構が点在しているという。

アレックス・ロスの『The Rest is Noise』にも引用されていた、W. G. ゼーバルトの『土星の環』を寝るまえに読んでいる。ブリテンも暮らしたサフォーク州一帯を徒歩で旅をしたドイツ人作家の随想である。その中に、このオーフォードに関する印象的な一節を見つけた。

「男はオーフォード岬にはいまでも近寄る者はいない、と話をした。孤独にはだれよりも馴染んでいるはずの漁師たちすら、二度か三度オーフォード岬の近くで夜網を張ってみたあとはぷつんとやめてしまう。口では魚がかからないからと言っているが、本当はそうじゃない、無のどまんなかに投げ出されたような場所のすさまじい荒寥に耐えきれなくなるからだ。」(W. G. ゼーバルト『土星の環』221頁、鈴木仁子訳)

「無のどまんなかに投げ出されたような場所のすさまじい荒寥」ーーまるで、《ピーター・グライムズ》の主人公の心象風景みたいじゃないか。



もう一枚は、オールドバラの浜にたつ、ブリテンの記念碑。《ピーター・グライムズ》から「I hear those voices that will not be drowned」(第2幕第2場)というピーターの台詞が刻まれている。

2013年5月20日月曜日

過去を語る言葉



最近のいろんなニュースを見ていて感じることは、当たり前のことだけれど、人が過去について語る時、それは単に「歴史的事実」なるものについて語ろうとしているのでなく、そこには、現在や未来のあり方に対するその人間の考え方や願望が言外に語られているということだ。で、そうした言葉を耳にする時には、最低限のリテラシーとして、そのことを忘れないでおきたい。とくに、「政治家」と呼ばれる人間たちが語るときには。

2013年4月6日土曜日

たたずまい

3月の終わりに、つかの間の休みを利用して、鹿児島を旅してきました。
知覧武家屋敷群。たたずまいの美しい町並みでした。











おまけ。






2013年2月23日土曜日

点を線で結ぶ


最近、「身体」ということが気になってしかたない。

いや、ずっと前からそうだった。

ヨガをやってみたり、トレーニングに勤しんだりしているのは、たぶんそのあらわれなのだろうと思う。そして、実践をしてみると、いろいろと気づかされることがある。自分自身の意識と身体との結びつきについて。あるいは、身体そのものについても。

僕は音楽やアートで育ってきた人間なので、自ずとその関心は、芸術あるいは音楽と身体という問題へと焦点を結んでいく。


少し話題はずれるけれど、最近、友人にある詩集を教えてもらった。

村野四郎『体操詩集』(上の写真)。

発表されたのは、昭和14年(1939年)。詩人は新即物主義の影響下で、この詩集を書いたのだという。

モダニズムという時代は、芸術において、近代スポーツがさまざまなかたちで主題化された時代だ。たぶん、絵画や写真にも、いろんな事例があるはず。音楽にも、サティの《スポーツと気晴らし》や、オネゲルの《ラグビー》など、けっこう素敵な作品がある。そうそう、ドビュッシーの《遊戯》を忘れてはいけない。


実は、スポーツをテーマにした音楽作品がこの時代に多く作曲されているというのは、ずっと前から(それこそ中高の時分から)興味のある事柄だった。

でも、音楽史では、それらはどちらかと言えば、「挿話的」な事例として片付けられてきたような気がするし、僕自身もどう扱っていいものか、そもそも研究に値するものなのかどうかも、よく分からないでいた。

しかし、いま、「身体」という観点からそれらの作品を眺めてみると、そこに重要な何かが隠されているのではないかという気がする。まだ、漠然としているのだけれど。

とにかく、近代スポーツが、音楽や芸術においてどのように「主題化」されていったのかを考察してみるのは、それ自体がテーマとして面白いのではないかと思う。メディアとか、大衆文化との関わりといった問題も、当然、浮上してくるだろうし。


音楽を中心にして。ほかの分野にも目配せしながら。
そんな点を線で結ぶような仕事ができたらいいなあ。

2013年1月6日日曜日

2013年1月1日火曜日

Another op'nin', another show


あけましておめでとうございます。
年末から大好きなコール・ポーターの曲が頭からずっと離れません。

新しい一年の幕開け。
今年はどんな一年になるんだろう。
楽しみです。