2016年1月4日月曜日

あけましておめでとうございます!


あけましておめでとうございます。
大学での講義、研究、執筆活動など、充実した一年にしたいと思います。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

※正月のトレーニングはじめは、実家近くの公園で軽く懸垂を。
趣味のトレーニングもがんばります^ ^


2015年7月28日火曜日

学食の思い出

大学時代の先輩が、Facebookに学食の写真を載せていて、そのメニューの変わらなさぶりに驚いた。そして、その写真を見ただけで、15年以上前に自分が食べていた頃の味や衣の食感や、いろんなものがよみがえってきて、なんともいえない幸せな気分になった。

いや、けっして、ものすごく美味いというわけではない。ハンバーグと揚げ物、そして麻婆豆腐やグラタン、マカロニサラダなどの組み合わせからなる日替わりの定食は、女子学生の中には、脂っこくて量も多くて食べられない、という子は多かった。でも、僕らはそのどうしようもないカロリーオーバーな定食を毎日食べ、そして誰も口には出さなかったけれど、心から愛していた。

消費主義的傾向の強い、そして、何かにつけて自己変革を求められるこの世の中であれば、学生アンケートとかが実施されて、サラダランチを作ってください、などという「要望」すら出てきてもおかしくない。

しかし、写真を見る限り、そういう「改善」や「改良」をした痕跡はほとんど見られない(刻みキャベツの量の少なさ具合も変わらない)。メニューにこだわりがあるから頑なに続けている、のではおそらくない。というよりも、むしろ、そうしたことに無頓着、無関心なだけだろう(もしかしたら、卒業生が懐かしんでくれるようにという愛情もちょっとは入っているのかも)。

でも、その無頓着さ、世の流れへの無関心さが、かえって何かとても貴重なものに思える。

そこへ帰って来れば、昔と変わらないものが、平凡として、そこにあるという、当たり前の幸福感。人の人生において、「学校」というものに何かの意味があるとすれば、その変わらないということそのものの平凡さが、世の中の流れにはあくまでも無頓着に、そこにあり続けることにあるのではないか。そして、社会の中で、変わらずにあることが許容される場である、ということにあるのでは。そのどうしようもなさも含めて。

いろいろ、と思う。

2015年7月20日月曜日

未来への責任

安保法制に反対する「SEALDs」の運動が注目を集めています。彼らの言葉は、どれもまっすぐで、わたしたちの心を打つものがあります。

「わたしは、戦争で奪った命を元に戻すことができない。空爆で破壊された街を建て直す力もない。自分の責任の取れないことを、あの首相のように『わたしが責任を持って』とか、威勢のいい言葉にごまかすことなんてできません。」

未来の世代にどのような日本を、どのような世界を残すことができるのかをひとりひとりがまっすぐに考える(想像する)こと。それがわたしたちに課せられた責任です。

「虚無的なリアリズム」に囚われることなく。

2015年6月13日土曜日

サイードの『音楽のエラボレーション』

エドワード・サイードの『音楽のエラボレーション(Musical Elaborations)』は、僕にとって大切な書物のひとつで、これまでも折にふれて読みなおしてきた。
学生時代に初めてこれを読んだときと比べて、今改めてこれを読みなおしてみて気づいたのは、昔とはずいぶん、共鳴するポイントが変わってきたということだ。
学生時代は、前半の2章「厳粛な非日常性としてのパフォーマンス」と「音楽における脱領域的要素について」が、とにかく面白かった。とくに、そこで展開されているサイードの思考が、音楽作品を「閉じた」ものとしてではなく、「開かれた」ものとして、社会や歴史的事象との「対位法的読解」を可能にするものとしてとりあつかう上で、さまざまな理論上のヒントや事例を与えてくれるものだったからだ(今振り返ると、読み方が浅かった・・・)

しかし、いま改めて読みなおしてみて、ひしひしと自分自身の問題意識や音楽的思考へと迫ってくるのは、最後の章「旋律、孤独、肯定」だ。伝統芸術としてのクラシック音楽が多様な価値観の共存する現代において、どのような価値を持ちうるのか。クラシック音楽が、ただ権威的なものとしてあるのではなく、その実践のうちに、オルタナティヴな文化的価値を含みうるものであることを、これほどまでに力強い筆致で論じたものを、僕は他に知らない。
もう20年以上も前の本だけれど、そこで取り上げられている問題は、未だに古びることのないもののように思える。

2015年5月11日月曜日

いま一番、熱中していること

体を鍛えることが、本当に楽しい。
トレーニングで得られる達成感は格別なものだ。
努力すれば、体は応えてくれるし、
怠れば、何も得られない。
そのシンプルなところがいい。

一回り、そしてもう一回り、"デカいカラダ" を目指して。

https://instagram.com/daisakumukai/



2015年3月9日月曜日

シミオン・テン・ホルトの《カント・オスティナート》

昨日は、飯田橋のアンスティチュ・フランセでBCLというグループのインスタレーション《Oubiopo》を見学した後、浅草のアサヒ・アートスクエアにて、シミオン・テン・ホルト作曲の《カント・オスティナート》(1976〜79)の4台ピアノ版(オリジナル稿)の日本初演を聴いた。ピアノは、向井山朋子、ゲラルド・バウハウス、鷹羽弘晃、新井健歩。
音楽とは何だろう。退屈なパフォーマンスと退屈でないパフォーマンスの違いとは? 何が私たちを音楽の中へと引き込み続けるのか。持続すること、そして変化することとは何か。音楽における時間とは? とどのつまり、音楽を聴くとはいったい何なのか。
演奏が始まる前は、なにか遠足に来たみたいなウキウキした気分で座っていた。会場に客席はなく、聴衆は直に床に座って、曲を聴く。

2時間近く、一切休憩なしで、4台のピアノが演奏し続ける。ブルックナーやマーラーのシンフォニーよりもずっと長いが、音楽そのものに伝統的な意味での展開はない。伝統的な意味でのソロもない。5連符の分散和音を基調としたモーダルなパターンが反復され、そしてゆるやかに、漸進的に変化し続ける。発想としては、ミニマル・ミュージックの延長線上にありつつも、タイトルに示唆されているように、バロック時代の固執低音(バッソ・オスティナート)の技法に近い。時折、2パターンの、キッチュすれすれのメロディアスなフレーズが浮かび上がる。わずかに、ジャン・カルマンによる照明インスタレーションと演出が、光と煙によって、パフォーマンスに最低限必要な儀式的フレームワークを提供する。
作曲は76〜79年。発表当時は、頭の固い批評家や作曲家たちがこの作品に拒絶反応を示したというが、聴衆には受け入れられたとある。ミニマルな手法も、(「人生を変える」とチラシに謳われている)メロディも、当時のポストモダン的文脈においては、それなりの効果を計算しつくした上での創作上の戦略だったのだと思うが、今は違う。21世紀の今日、この音楽を聴くことには、一体どんな意味があるのだろうか。
不思議なことがひとつ。この音楽を聴いた2時間、一瞬も飽きることがなかったということ。車窓の風景を飽きずにずっと眺めているような感覚というか。陶酔するというより、最後まで覚醒している感じが続いた。集中しているわけではない。かといって、音楽の流れにただ身を任せて心地よく漂っていたわけでもない、不思議な感覚。社会学的に類型化されたいかなる聴取のかたちにも当てはまらない。様々な形で文化的に、身体的に、そして環境的に条件づけられているであろう「感性の構造」そのものの不思議。
そして、そして、大切な友人と、この時間を共有できたことの幸せ。
リンクは、2台ピアノ版のダイジェスト映像。
CDもリリースされるそうです。素晴らしい音楽、観てたらやっぱり欲しくなってきた。

2014年11月16日日曜日

ポストホルン・セレナーデ

不勉強とはまさにこのことで、これまでモーツァルトのセレナーデの類いをじっくりと聴いたことがなかった。じっくり聴くべきだという認識をそもそももっていなかったからかもしれない。「機会音楽」とかいう、後付けの便利な枠組みにどこか囚われてしまっていたのだと思う。
ここ2、3日、風邪で自宅に籠っているのだが、起きている間、モーツァルトの「ポストホルン・セレナーデ」を聴いている。というのも、今年1月にリリースされたアーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ヴィーンの録音が面白くてしかたない。モーツァルトの大規模セレナーデが、これほどまでに音楽的な魅力にあふれたものだとは、恥ずかしながら知らなかった。
これはなんというか、日常を祝祭的な劇場空間へと仕立て上げる、モーツァルトの天才的な企て、である(ちなみに、このセレナーデ自体は、ザルツブルク大学の夏学期終了の祝典のために書かれたという・・・18世紀当時の大学の祝典ってどういうものだったのだろう)。シンフォニーに匹敵する内容と規模をもつのはもちろん、劇場という閉じた空間を満たせばよいだけのシンフォニーとは違って、開かれた聴衆と空間全体を演出する必要性から、より大規模で、多彩で、表現においても大胆なものが志向されている(のだと思う)。あの素晴らしい序奏の数十秒で、一気に祝祭的な空間が立ち上がる。雄弁にして軽妙。重厚にして繊細。ソナタ楽章があり、ダンスがあり、コンチェルタンテがあり、オペラの一場面があり、音楽の冗談があり・・・そこにはありとあらゆるものがそろっている。
それにしても、セレナーデのこうした面白さに開眼させてくれるような演奏にこれまで出会うことがなかったのはなぜだろう。ロココ風で、優美なだけの、表面だけをさらりとなぞったような、味気ない演奏が多いからか。祝宴のざわめきの中で聴かれていた(またときに、聞き流されていた)音楽? 確かに。しかし、18世紀当時、ざわめきの華やぎの中で聴かれない音楽など存在しただろうか。そして、これは間違いなく、傾聴し、モーツァルトの豊かなアイデアと天才的な技法を堪能すべき音楽である。
アーノンクールの演奏には、本で学んだことの数倍の説得力がある。なによりも、演奏のちからの偉大さを、いつも感じさせてくれる。
http://www.nikolausharnoncourt.com/de/news/mozart-posthorn-serenade-sinfonie-nr-35-haffner