このあいだから嫌な予感がしていたのだが、
先週ついにかぜでダウンしてしまった。
悪寒と吐き気が波状攻撃のように襲ってくる。
たぶん急激な寒さに身体がついていけなかったのと、疲れとストレスが原因だ。
週末から今日にかけては、ゆっくりと静養させてもらい、
何とか食欲もお腹の調子ももとに戻って、明日からは仕事にも復帰できそうだ。
ほんとうは学生の演奏会にも行く予定があったのだが、
行けなかったのがとても残念だ。
うちの近所に、ラッピング商品や雑貨をとりあつかう大きなお店がある。
このあいだまで、ハロウィンのグッズが店頭にいっぱい並んでいたのが、
気づいたら、クリスマス一色になっていた。
今年ものこりあと一ヶ月とちょっと。
ラストスパートだ。
お医者さんによると、かぜが流行っているらしい。
みなさんも温かくして、風邪などひかれませんように。
2011年11月21日月曜日
2011年10月23日日曜日
充実感、ということ。
イギリスから帰って、はや1ヶ月。10月ももう終わりだ。
11月には、5日(土)、6日(日)に東大駒場キャンパスで開かれる日本音楽学会の第62回全国大会で発表する。6日のラウンドテーブル「実践に基づく研究と大学」で、パネリストのひとりとして、最近のヨーロッパの音楽大学や音楽院における制度改革の動きと、その中で新たに盛んになりつつある「実践に基づく研究 practice-based research」という研究領域の可能性、またそれが音楽学に与えうるインパクトについて、パフォーマンス研究という切り口で話す予定だ。
音楽パフォーマンスの研究は、これから自分自身も取り組んでいきたいと考えている分野なので、それにむけてキーコンセプトや方法論の整理ができればと思っている。
帰国して以来、授業、原稿の執筆、研究……、とあわただしく、息をつく暇もないくらいに、とにかく仕事をこなす日々が続いているが、そんな中、僕にとって生活の重要な一部となりつつあるのが、トレーニングである。
半年ぐらい前から、ボディビル選手として活躍されている太田祐宇樹トレーナーにお世話になりながら、週2〜3回、ジムにトレーニングに通っている。以前の僕なら考えられないことだが、今では体を動かすこと、汗を流すことが、とにかく楽しい。まだまだだけれど、以前よりも体力もついてきたし、体つきも少しずつ変わってきたような気がする。
運動経験0の僕にとって、太田さんの存在はとても大きい。自分ひとりでは到底ここまでできなかったと思う。昨日のトレーニングでは、「TRX」という新しいトレーニングを行った。サスペンション器具を使って全身でバランスをとりながら筋トレを行うのだが、動的なトレーニングなので、キツいけれど、体を動かす楽しさもある。
体は嘘をつかない、というのは本当で、頑張れば、その分だけ、成果が目に見えてあらわれてくる。もちろん、一朝一夕にはいかないけれど。でも、トレーニングの翌日、筋肉痛になると、昨日はがんばったなあ、と充実した気持ちになる(笑)。今日も腰から背中にかけてがバキバキになっている。たぶん、昨日のデッドリフトのせいだ。
なんだか変かもしれないけれど、でも、仕事以外に充実感を得られる時間をもつというのは、人生においてすごく大切なことだろうと思う。
明日からまた1週間が始まる。学会発表の準備にもそろそろ本腰を入れないと。
みなさんにとっても、今週が充実した1週間となりますように。
11月には、5日(土)、6日(日)に東大駒場キャンパスで開かれる日本音楽学会の第62回全国大会で発表する。6日のラウンドテーブル「実践に基づく研究と大学」で、パネリストのひとりとして、最近のヨーロッパの音楽大学や音楽院における制度改革の動きと、その中で新たに盛んになりつつある「実践に基づく研究 practice-based research」という研究領域の可能性、またそれが音楽学に与えうるインパクトについて、パフォーマンス研究という切り口で話す予定だ。
音楽パフォーマンスの研究は、これから自分自身も取り組んでいきたいと考えている分野なので、それにむけてキーコンセプトや方法論の整理ができればと思っている。
帰国して以来、授業、原稿の執筆、研究……、とあわただしく、息をつく暇もないくらいに、とにかく仕事をこなす日々が続いているが、そんな中、僕にとって生活の重要な一部となりつつあるのが、トレーニングである。
半年ぐらい前から、ボディビル選手として活躍されている太田祐宇樹トレーナーにお世話になりながら、週2〜3回、ジムにトレーニングに通っている。以前の僕なら考えられないことだが、今では体を動かすこと、汗を流すことが、とにかく楽しい。まだまだだけれど、以前よりも体力もついてきたし、体つきも少しずつ変わってきたような気がする。
運動経験0の僕にとって、太田さんの存在はとても大きい。自分ひとりでは到底ここまでできなかったと思う。昨日のトレーニングでは、「TRX」という新しいトレーニングを行った。サスペンション器具を使って全身でバランスをとりながら筋トレを行うのだが、動的なトレーニングなので、キツいけれど、体を動かす楽しさもある。
体は嘘をつかない、というのは本当で、頑張れば、その分だけ、成果が目に見えてあらわれてくる。もちろん、一朝一夕にはいかないけれど。でも、トレーニングの翌日、筋肉痛になると、昨日はがんばったなあ、と充実した気持ちになる(笑)。今日も腰から背中にかけてがバキバキになっている。たぶん、昨日のデッドリフトのせいだ。
なんだか変かもしれないけれど、でも、仕事以外に充実感を得られる時間をもつというのは、人生においてすごく大切なことだろうと思う。
明日からまた1週間が始まる。学会発表の準備にもそろそろ本腰を入れないと。
みなさんにとっても、今週が充実した1週間となりますように。
2011年8月24日水曜日
オールドバラ滞在記・3
久しぶりの更新になってしまいました。オールドバラに来て、はや1ヶ月が経とうとしています。
オールドバラでは、小さなコテージを借りています。東京のような都会とは違って、小さな田舎町ですから、暮らしていれば、自然とご近所付き合いも生まれくるものです。お隣のマジェリーさんは戦争が終わった年にオールドバラにお嫁に来て、もう68年もこの町に暮らしているとのこと。このあいだ、立ち話をしていたら、ブリテンが犬を連れて散歩しているのをよく見かけたわよ、と教えてくれました。昔、マジェリーさんが働いていたお店にもよく買い物に来ていたそうです。そんな町に来ているんだなあ、と少し感慨深くもある今日この頃です。
先日、イギリスに遊びにきていた友人と、ブリテンの暮らした「レッドハウス」と呼ばれる家を見に行きました。マジェリーさんの話を聞いていてふと思い出したのが、一階のリヴィングルームの隣に、小さな犬用玄関(とでも言うのでしょうか)があったことです。ブリテンが犬を飼っていたという事実は、伝記などにも書かれてあったのでしょうが、すっかり読み飛ばしていました。しかし、そうした小さな事実の数々を自分自身の目や耳で確かめることで初めて、ブリテンという作曲家に対する自分なりの理解が深まってきているような気もしています。
(ブリテンとピアーズが暮らした「レッドハウス」)
オールドバラに暮らしながら、なぜブリテンがここを生活と創作の場として選んだのか、ということを考えることがあります。この滞在期間中、オールドバラとロンドンを何度か行き来したのですが、時間もかかりますし、不便きわまりありません。もちろん、車があれば、そこまでたいへんではないのかもしれませんが、それでもここが「僻地」であるということにかわりはないでしょう。しかし、彼はここを拠点にし、ここで作品を書き、仲間たちを呼んで新作の構想について語らったり、友人とゲームやテニスをしたり、また親しい音楽家たちを招いて音楽祭を開いたりしました。
もちろん土地への愛着もあったでしょう。と同時に、ここに暮らすことで、彼はある種の共同体を夢見ていたのかもしれないなあとも思います。音楽は共同体のものでなければならない、というのが、彼の創作の根本にはありました。その彼なりの共同体の考え方(たぶん、思想というほどの体系だったものではなかったはずです)や、それと付随する「occasional music」の問題は、実はこれまでブリテンの研究をしてきて、僕としてはあまりぴんと来なかった部分だったのですが、ここで暮らすうちに、何かある、と思うようになりました。これについては、今回の滞在の目的でもある研究中の課題の中で、自分なりの答えを見いだしていきたいと思っています。
(ブリテンとピアーズは、フォースターのエッセイにも出てくるAldeburgh Parish Churchの墓地に眠っています)
書きたいことはまだまだ山のようにあります。プロムスのスティーヴ・ライヒ75歳記念コンサートに行ったこと。それと友人とグラインドボーン音楽祭にブリテンの《ねじの回転》を観に行ったときのこと。《ねじの回転》というオペラに関してや、また心理劇としてのこの作品を見事に舞台化していたJonathan Kentの演出についても、ぜひ書いておきたいことがあります。が、今日はもう遅いので、この辺にしておきたいと思います。
この夏のイギリス滞在も残すところ、あと1ヶ月ほど。スケジュールもかなり立て込んできました。9月の最初の土日には、ケンブリッジ大学でブリテンと文学に焦点をあてた「Literary Britten」というカンファレンスがあり、それに参加してきます。来週から再来週にかけては、いよいよBritten-Pears Libraryでの資料研究もスタート。そして、今月末には論文も一本仕上げなければなりません。ですが、また折々に、それらの報告もふくめて、このブログもつづっていきたいと思っています。
ではまた!
2011年7月25日月曜日
オールドバラ滞在記・2
朝のひんやりとした空気のなか、ブログを書いています。あいかわらず、夜はあまり眠れません。今朝も3時ごろに目が覚めて、何をするでもなく、しばらく読書をしていました。ですが、オールドバラでは、この時間が一日で一番好きな時間帯かもしれません。静かに窓を開けると、冷たい風とともに、カモメやウミネコ、いろいろな鳥の声が聞こえてきます。オールドバラの朝を告げる、美しいサウンドスケープです。
オールドバラという町については、イギリスの作家E. M. フォースターが一編のエッセイ(“George Crabbe: the Poet and the Man”)を書いています。これはオールドバラ出身の18世紀の詩人ジョージ・クラッブに関するもので、日本を発つ前に、東京音大のMさんからコピーをいただき、オールドバラへの旅行中ときどき読み返していました。「クラッブについて語ることは、イングランドについて語ることである」という印象的な書き出しではじまるこのエッセイのなかで、フォースターは町の様子をこのように描写しています。
オールドバラという町については、イギリスの作家E. M. フォースターが一編のエッセイ(“George Crabbe: the Poet and the Man”)を書いています。これはオールドバラ出身の18世紀の詩人ジョージ・クラッブに関するもので、日本を発つ前に、東京音大のMさんからコピーをいただき、オールドバラへの旅行中ときどき読み返していました。「クラッブについて語ることは、イングランドについて語ることである」という印象的な書き出しではじまるこのエッセイのなかで、フォースターは町の様子をこのように描写しています。
それは寒々とした小さな場所である。美しくはない。町はフリントを積み上げた教会の塔のまわりに密集し、そこから北海のほうに下って大の字に広がっている。——そして、小石だらけの浜辺に打ちつけては、海がぶくぶくと泡立つさまよ! 近くには、河口の側に波止場があり、ここからの眺めはメランコリックで平たんなものとなる。広がる泥土、塩っぽい共同地、沼地の鳥たちの鳴き声。クラッブはこの音を聞き、このメランコリーを見、そして、それらが彼の詩句となっているのだ。
7/21。ロンドンのリヴァプール・ストリート駅から列車を乗り継ぎ、サクスマンダム駅へ(ここまで約2時間)。そして、さらにそこからローカル・バスに乗って30〜40分。ようやくオールドバラにたどり着いた僕の眼前にも、同じ眺めが広がっていました。北海の荒々しい波、小石だらけの浜辺、海鳥たちの鳴き声。遠浅の海は茶色く濁っていました。波打ち際では、ほんとうに海がぶくぶくと泡のような音を立てています。あ、《ピーター・グライムズ》の海だ、と直感しました。
目の前の現実の風景に物語のなかの情景を重ね合わせるなんて、センチメンタルにも程がありますね。はじめは僕も、オールドバラに行って何が分かるのか、と思っていました。それよりも作品を丹念に分析し、楽譜とテクストを地道に読み解くことのほうがよほど大事なのではないか、と。しかし、実際にこの地に立ってみて、ここに来てみなければ分からないこともたしかにある、と気づきました。ブリテンもたしかに、この音を聞き、このメランコリーを見、そして、それらが彼の音楽となっているのだ、と。
ブリテンの作品をまだあまりよく知らない方には、やはり、まずはオペラ《ピーター・グライムズ》を観ていただきたいです。といっても、いきなりオペラ全編というのはたいへんですから、このオペラのなかから間奏曲を演奏会用に抜粋した「4つの海の間奏曲」をおすすめします。とくに第1曲〈夜明け Dawn〉が僕のお気に入りです。フルートとヴァイオリンによる寂しげな一本の旋律、吹き抜ける風のように奏でられるクラリネットとヴィオラとハープのアルペッジョ、そして低音の金管楽器の打ち寄せる波のようにクレッシェンドし、ディミニュエンドする和音。単純な手法ですが、これだけで十分です。ひとつの海の情景が浮かび上がります。
しかし、これらの間奏曲はまた、単なる海の情景描写ではありません。ブリテンは無言の音を通じて、海に生きる人びとの、そして主人公である孤独な漁師の、言葉にされることのない深い内面も描いていきます。荒々しく波立つ海は、その濁った水面にひとのこころの深淵を映し出してもいるのです。と同時に、これらは作曲者自身の心象風景でもあるとも思うのですが、そのことについては、また改めて書くことができればと思っています。
などと書いているうちに、もうお昼になってしまいました。そうだ、せっかく毎朝早起きしているわけですから、今度、夜明けの海を見に行ってみたいと思います。〈夜明け〉の音楽を思いうかべながら。
2011年7月24日日曜日
オールドバラ滞在記・1
今、イギリスに来ています。これから2ヶ月間、サフォーク州オールドバラというところに滞在して、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンの研究(資料調査と論文の執筆)に取り組む予定です。
2ヶ月って、短いようで長いよなあ、というのが、今の実感です。よく長いようで短いとは言いますが、まだ始まったばかりだからなのかも。滞在が終わる頃には、あっという間だったなあ、なんて言っているかもしれません。
オールドバラに着いて3日目ですが、何かと慌ただしかった東京での生活と比べて(とくに7月は、日本を発つ前に山のような仕事をこなさなくてはならなかったので)、驚くほど静かで、ゆったりと時間が過ぎていきます。あまりにものんびりしていて、ときどき不安になるくらいです。時差もまだ抜けていなくて、昼間にものすごーく眠くなり、夜中はなかなか寝つけません。でも、しばらくすれば、この時間の流れにも、慣れて来るのかもしれませんね。
とりあえず、今週は、原稿の仕事と、近々書き上げなければならない論文をひとつ、仕上げるのが目標です。その間に、隣町スネイプにあるモールティングスというホールで開催される若手作曲家によるオペラ創作のワークショップも観てきます。
すでに何枚か、素敵な町の写真がとれました。こちらの様子などとあわせて、随時アップしていきますね。とりあえず、今日の一枚は、町で見つけたかわいい小道です。
2011年5月4日水曜日
TARO
昨日、東京国立近代美術館で行われている「岡本太郎展」に行ってきた。
ゴールデンウィークとあって、かなりの人出だった。
岡本太郎の絵や彫刻は、作品としては、そんなにいいとは思えないのだけれど、
(それでも、絵画作品にくらべると、彫刻のほうが断然おもしろい)
彼の残した文章は、ほんとうにすばらしい。
岡本太郎という人間が思考し、感じたことの、瞬間のみずみずしさが、
直裁に伝わってくる、そんな文章だ。
人ごみをかきわけるように、慌ただしく、一通り展示を見終わった後、
みすず書房の「岡本太郎の本 全5巻」を半ば衝動買いし、
家に帰ってから、展覧会で引用されていた文章を探す。
——「生活そのものとして、その流れる場の瞬間瞬間にしかないもの。
そして美的価値だとか、凝視される対象になったとたん、
その実体を喪失してしまうような、
そこに私のつきとめたい生命の感動を見とるのだ」
(岡本太郎「沖縄文化論——忘れられた日本——」)
「生命の感動」なんて、今更ながら、
ちょっと恥ずかしくて口にできないような台詞だけれど、
逆に、何だか新鮮でもある。
2011年4月5日火曜日
わたしを離さないで
久しぶりに映画館に行ってきた。
『わたしを離さないで』。カズオ・イシグロの小説の映画化である。
静かな、抑制された雰囲気は原作そのままだが、ストーリーの「残酷さ」はスクリーンの中で生身の人間によって演じられるだけに、小説を読んだときよりも、ずしりときた。
(2時間の映画におさめるために、内容——物語の背景とか、エピソードや、対話など——がずいぶん簡略化され、エッセンスの部分だけにぎゅっと絞り込んだ物語構成になっていたせいもあると思う)
映像はとても美しかった。演じる俳優たちも。映し出されるイギリスの景色も。とりわけ、ラストシーンは原作そのままに再現されていて、印象深かった。
こんなときだからこそ、というわけでは決してないけれど——彼らと同じように、静かに、まっすぐと、自分たちは何のために生きているのか、ということを見つめる時間を大切にしたい。
帰りの電車の中で、そんなことを、ふと思った。
追記:たしかにストーリーは簡略化されていたけれど、そのせいで映画から奥行きや味わいが失われたということは決してない。俳優たちの演技(とくに主役を演じた3人の若手俳優の繊細な演技)はそれを補ってあまりあるすばらしいものだったと思う。
『わたしを離さないで』。カズオ・イシグロの小説の映画化である。
静かな、抑制された雰囲気は原作そのままだが、ストーリーの「残酷さ」はスクリーンの中で生身の人間によって演じられるだけに、小説を読んだときよりも、ずしりときた。
(2時間の映画におさめるために、内容——物語の背景とか、エピソードや、対話など——がずいぶん簡略化され、エッセンスの部分だけにぎゅっと絞り込んだ物語構成になっていたせいもあると思う)
映像はとても美しかった。演じる俳優たちも。映し出されるイギリスの景色も。とりわけ、ラストシーンは原作そのままに再現されていて、印象深かった。
こんなときだからこそ、というわけでは決してないけれど——彼らと同じように、静かに、まっすぐと、自分たちは何のために生きているのか、ということを見つめる時間を大切にしたい。
帰りの電車の中で、そんなことを、ふと思った。
追記:たしかにストーリーは簡略化されていたけれど、そのせいで映画から奥行きや味わいが失われたということは決してない。俳優たちの演技(とくに主役を演じた3人の若手俳優の繊細な演技)はそれを補ってあまりあるすばらしいものだったと思う。
2011年3月14日月曜日
明日
あの日以来、揺れ続けている。地面が。日常が。そして、わたしたちのこころが。
明日への不安、という言葉が、今ほどリアルに感じられることはない。しかし、いま、この瞬間にも、明日のために懸命に努力をしている人たちがいる。わたしにできるのは小さなことかもしれないけれど、それでも自分自身にできること、やるべきことはまっとうしよう。小さな、しかし、希望ある明日のために。
被災地のみなさまには、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く、平穏な日々が戻りますように。
明日への不安、という言葉が、今ほどリアルに感じられることはない。しかし、いま、この瞬間にも、明日のために懸命に努力をしている人たちがいる。わたしにできるのは小さなことかもしれないけれど、それでも自分自身にできること、やるべきことはまっとうしよう。小さな、しかし、希望ある明日のために。
被災地のみなさまには、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早く、平穏な日々が戻りますように。
——避難所で過ごしている「彼女」の無事を祈りながら。
2011年3月10日木曜日
ヴォクスマーナのこと
先週末、ヴォクスマーナの第24回定期演奏会に行ってきた。一言でいうと、すばらしい演奏会だった。ヴォクスマーナは今年、結成15周年を迎えるそうなのだが、僕個人としても、なんだかとても感慨深い。というのも、彼らが15年前に結成して以来、僕は年2回の定期演奏会をほとんど欠かさずに聴いてきたからだ。
メンバーには大学時代の同級生や友人たちもいて、結成当時は大学生だった彼らももう30代半ばにさしかかっている。そうか、自分たちはもうそんな歳になったのだ、と改めて年月の流れの速さを実感すると同時に、彼らが15年間、「現代音楽専門の声楽アンサンブル」という演奏の面でも聴衆の獲得という面においても困難に違いない活動を、高い志でずっと継続してきたことに、心から尊敬の念を抱かずにはいられない。9月に予定されている第25回は、15周年記念演奏会となるそうだ。少し気が早いかもしれないけれど、ヴォクスマーナのみなさん、ほんとうにおめでとうございます。
さて、今回の演奏会でも強く感じたのだが、ここ最近の彼らの充実ぶりには目を見張るものがある。彼らのアンサンブルは、以前から個々のメンバーの高い技術に支えられた精度の高いものだったが、最近はより全体としてのバランスがとれてきて、なによりも演奏に迷いといったものがまったく感じられなくなった。技術的にもよりしなやかさが増してきたように思う。そして、作曲家の思いえがくものを実現しようとする、音楽への献身的な姿勢。ときには喉に大きな負担のかかる音域や発声法、超絶技巧などが要求されることもあるだろう。また、現代音楽の難しいピッチを楽器の助けを借りずに、人の声だけで正確に再現しようとすれば、そのために個人として、またアンサンブル全体として、どれほどの労力と時間と才能が必要とされるのか、僕のような凡人には到底想像もつかない。それでも、彼らはほとんどいつも、高いレベルの演奏を聴かせてくれるのだから、ほんとうにすごいことだと思う。
ヴォクスマーナというのは、人の声を意味するラテン語だが、この名前には彼ら自身の信念が表わされているのだろう。人の声には、おそらく無尽蔵の表現の可能性が秘められている。それは単に音楽の素材としてという意味においてだけではない。声とは、そもそも人が発するものだ。そこにはさまざまな響きがあり、色彩があり、感情がある。言葉もある。そして、こうしたさまざまなものはすべて人間という存在に根ざしたものである。そうした意味での声の存在というものを、今回、最も強く感じさせてくれたのは、木下正道の新作《書物との絆II》だったような気がする。ひとつの声が空間へと放たれ、それがアンサンブルの中に波紋のように広がりながら、多層的な音楽を奏でていく、とても密な時間を味わわせてくれた。
また次の15年後、ヴォクスマーナはどんな音楽を聴かせてくれているのだろう。そして、自分はいったい何をしているのだろう。未来が少しだけ待ち遠しくなってきた。
メンバーには大学時代の同級生や友人たちもいて、結成当時は大学生だった彼らももう30代半ばにさしかかっている。そうか、自分たちはもうそんな歳になったのだ、と改めて年月の流れの速さを実感すると同時に、彼らが15年間、「現代音楽専門の声楽アンサンブル」という演奏の面でも聴衆の獲得という面においても困難に違いない活動を、高い志でずっと継続してきたことに、心から尊敬の念を抱かずにはいられない。9月に予定されている第25回は、15周年記念演奏会となるそうだ。少し気が早いかもしれないけれど、ヴォクスマーナのみなさん、ほんとうにおめでとうございます。
さて、今回の演奏会でも強く感じたのだが、ここ最近の彼らの充実ぶりには目を見張るものがある。彼らのアンサンブルは、以前から個々のメンバーの高い技術に支えられた精度の高いものだったが、最近はより全体としてのバランスがとれてきて、なによりも演奏に迷いといったものがまったく感じられなくなった。技術的にもよりしなやかさが増してきたように思う。そして、作曲家の思いえがくものを実現しようとする、音楽への献身的な姿勢。ときには喉に大きな負担のかかる音域や発声法、超絶技巧などが要求されることもあるだろう。また、現代音楽の難しいピッチを楽器の助けを借りずに、人の声だけで正確に再現しようとすれば、そのために個人として、またアンサンブル全体として、どれほどの労力と時間と才能が必要とされるのか、僕のような凡人には到底想像もつかない。それでも、彼らはほとんどいつも、高いレベルの演奏を聴かせてくれるのだから、ほんとうにすごいことだと思う。
ヴォクスマーナというのは、人の声を意味するラテン語だが、この名前には彼ら自身の信念が表わされているのだろう。人の声には、おそらく無尽蔵の表現の可能性が秘められている。それは単に音楽の素材としてという意味においてだけではない。声とは、そもそも人が発するものだ。そこにはさまざまな響きがあり、色彩があり、感情がある。言葉もある。そして、こうしたさまざまなものはすべて人間という存在に根ざしたものである。そうした意味での声の存在というものを、今回、最も強く感じさせてくれたのは、木下正道の新作《書物との絆II》だったような気がする。ひとつの声が空間へと放たれ、それがアンサンブルの中に波紋のように広がりながら、多層的な音楽を奏でていく、とても密な時間を味わわせてくれた。
また次の15年後、ヴォクスマーナはどんな音楽を聴かせてくれているのだろう。そして、自分はいったい何をしているのだろう。未来が少しだけ待ち遠しくなってきた。
2011年3月9日水曜日
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