2014年7月19日土曜日

《わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た》

今日を逃せば、生でこの作品を聴く機会はもう巡ってこないかもしれない、という思いもあった。いや、たぶんきっともう巡ってこないだろうと思う。そんな気がする。

ベルント・アロイス・ツィンマーマンの絶筆、《わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た》(1970)の日本初演を聴きに、新日本フィルの定期演奏会に行ってきた。すみだトリフォニー・ホール(7/19)。指揮はインゴ・メッツマッハー。

40分近い大作には、「2人の話者、バス独唱、オーケストラのための福音宣教的アクション」との副題が添えられている。テクストは旧約聖書とドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』第2部・第5篇「大審問官」。舞台上のバス独唱と、舞台後方の2人の話者が、これらのテクストをさまざまなアクションを伴いながら、歌い、語る(独唱はローマン・トレーケル、話者は松原 友、多田羅迪夫で、すばらしい熱演だった。歌詞対訳も舩木篤也さんによる充実したもの。ただ欲を言えば、作品の理解のためには字幕付きの上演が望ましかったと思う)。

管弦楽は常に断片的で、歌と語りが作り出す時間の中に、点描的な響きの背景を作り出し、ノイズを解き放ち(打楽器奏者はいったい何枚の段ボール紙を引き裂いたのだろうか)、またときに巨大な音群によって語りのアクションそのものを暴力的に遮断する。終わりの部分では、指揮者と語り手たちは床に座り込み、瞑想する(語り手たちは即興的にテクストを朗読する)。

「倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ」――曲の最後には、この絶望的な言葉が放たれる。そして、アルバン・ベルクがヴァイオリン協奏曲でも引用したバッハのコラール〈事みちたれり〉の断片が金管楽器によって奏でられ、それが暴力的に断ち切られる。

文字通り、ひとりの作曲家の心の闇を、その精神の深淵を、のぞき見るような時間だった。1970年8月、作曲者は拳銃自殺を図って、この世を去る。この作品の完成した5日後のことだ。彼はいったい何を思い、この大作と、そして自らの人生に、最後の終止線を引いたのか。わたしたちに残されたのはただ、作品のみだ。

ちなみに、今回は、新日本フィルの今シーズン最後の公演だった。Conductor in Residenceを務めるメッツマッハーは、ベートーヴェンとツィンマーマンを組み合わせるプログラムを、今シーズンの最後の2公演と、次シーズンの最初の2公演(9月・10月)に組んでいる。サントリーホール・シリーズのほうの解説にも書いたのだが、時代を超えてふたりの作曲家の音楽と人生とが交差する、メッツマッハーらしい、意欲的で、考え抜かれたツィクルスだ。

次回公演は、9月29日(月)サントリーホール、ツィンマーマンの《フォトプトシス》と《ユビュ王の晩餐のための音楽》、ベートーヴェンの7番。トリフォニーのほうは、10月3日(金)・4日(土)、ツィンマーマンの《静寂と反転》とベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》。

http://www.njp.or.jp/archives/10116

2014年7月5日土曜日

吹奏楽


先日、「題名のない音楽会」で吹奏楽の特集をやっていた。

真島俊男の《コーラル・ブルー》なんて懐かしい曲名が出てきたり、ソロ奏者をうっとりとした表情で見つめている女子高生や、アンコールの《星条旗よ、永遠なれ》を、顔を昂揚させながら、舞台上の吹奏楽団といっしょに客席で演奏している中高生たちの姿を眺めていたら、ああ懐かしい感じだなあ、楽しそうだなあ、という気持ちと同時に、何かやるせない、複雑な気持ちも起こってきた。メディアなどで吹奏楽の話題を目にすると、いつもなぜか、そんな二律背反的な気分になってしまう。

何を隠そう(別に隠してはいないけど)僕自身も、中学生の時は吹奏楽部でサックスを吹く、一端の吹奏楽少年だった。だが、吹奏楽は中学で卒業して、高校ではやめてしまった。音大の受験を目指していたせいもあるが、それが本当にやりたいものであったなら、それでも続けていたと思う。でも、続けなかった。たぶん、吹奏楽という(ある種の体育会系の)「文化」だけでなく、その音楽そのものに対しても、どこかなじめないものを感じていたからだろうと、今となって思う。

もちろん、中学時代の部活動は、本当に楽しかったし、僕自身の人生において大切な部分をなしている。好きな曲、思い出深い曲もたくさんある。何よりも、たくさんの友人を含めて、吹奏楽を通じてのさまざまな出会いが中学生の僕自身を成長させてくれたし、また将来、音楽の道に進もうと決心したのも、吹奏楽部の顧問をしていた恩師の影響が大きかったと思う。

吹奏楽は、「音楽する楽しさ」をストレートに与えてくれる音楽だ。そのことは件のテレビ番組などを見ていても、よく分かる。でも、それと同時に、吹奏楽は、少なくとも今の僕の心の中には入ってこない。体をスウィングさせ、気分を昂揚させることはあっても、心を深く揺さぶられたり、知的な感動を与えたりしてくれることは、少なくとも、僕自身に関して言えば、ない。もちろん、こうした捉え方自体が心身二元論的なものであって、楽しくて昂揚する、で十分じゃないかと言われれば、何の反論もない。また、吹奏楽にも、知的好奇心を刺激してくれるような作品や心の奥深くまで揺さぶってくれるような音楽、あるいはそうした演奏があるのかもしれない。僕がまだそうしたものに出会っていないだけなのかも。

しかし、二律背反的な気分になるというのは、吹奏楽というジャンルが、外野から観ていると、クラシック音楽やその他の音楽ジャンルときわめて密接にリンクしていて、音楽的にも、文化的にも、また人材的にも重なる部分が多いにも関わらず、それ自体で閉じたジャンル、閉じた文化を形成している(ように見える)ということだ。そのジャンルとしてのありようや、「文化」そのものの中に、外から借りるものだけは、借りてきて、後は自分たちで楽しみますから、口は出さないでくださいね的な、閉鎖性を、どうしても感じ取ってしまう。

僕自身は吹奏楽という世界の外に出て、音楽というものがもつ、本当の豊かさというものを知ることが出来たように思う。できれば、客席に座っている中学生や高校生たちも、将来、もっと広くて豊かな音楽の世界を見つけていってくれればなあと思う。いや、その発想自体がおこがましい、上から目線の、余計なお世話なのかもしれないし、吹奏楽を卒業した後も、自分自身で新たな音楽の楽しみ方を見つけている友人たちを思えば、単なる杞憂なのだろうと思う。しかし、吹奏楽の話題をメディアで見聞きするたびに、いつも何となく、そんな複雑な気分になってしまうのだ。