2015年3月9日月曜日

シミオン・テン・ホルトの《カント・オスティナート》

昨日は、飯田橋のアンスティチュ・フランセでBCLというグループのインスタレーション《Oubiopo》を見学した後、浅草のアサヒ・アートスクエアにて、シミオン・テン・ホルト作曲の《カント・オスティナート》(1976〜79)の4台ピアノ版(オリジナル稿)の日本初演を聴いた。ピアノは、向井山朋子、ゲラルド・バウハウス、鷹羽弘晃、新井健歩。
音楽とは何だろう。退屈なパフォーマンスと退屈でないパフォーマンスの違いとは? 何が私たちを音楽の中へと引き込み続けるのか。持続すること、そして変化することとは何か。音楽における時間とは? とどのつまり、音楽を聴くとはいったい何なのか。
演奏が始まる前は、なにか遠足に来たみたいなウキウキした気分で座っていた。会場に客席はなく、聴衆は直に床に座って、曲を聴く。

2時間近く、一切休憩なしで、4台のピアノが演奏し続ける。ブルックナーやマーラーのシンフォニーよりもずっと長いが、音楽そのものに伝統的な意味での展開はない。伝統的な意味でのソロもない。5連符の分散和音を基調としたモーダルなパターンが反復され、そしてゆるやかに、漸進的に変化し続ける。発想としては、ミニマル・ミュージックの延長線上にありつつも、タイトルに示唆されているように、バロック時代の固執低音(バッソ・オスティナート)の技法に近い。時折、2パターンの、キッチュすれすれのメロディアスなフレーズが浮かび上がる。わずかに、ジャン・カルマンによる照明インスタレーションと演出が、光と煙によって、パフォーマンスに最低限必要な儀式的フレームワークを提供する。
作曲は76〜79年。発表当時は、頭の固い批評家や作曲家たちがこの作品に拒絶反応を示したというが、聴衆には受け入れられたとある。ミニマルな手法も、(「人生を変える」とチラシに謳われている)メロディも、当時のポストモダン的文脈においては、それなりの効果を計算しつくした上での創作上の戦略だったのだと思うが、今は違う。21世紀の今日、この音楽を聴くことには、一体どんな意味があるのだろうか。
不思議なことがひとつ。この音楽を聴いた2時間、一瞬も飽きることがなかったということ。車窓の風景を飽きずにずっと眺めているような感覚というか。陶酔するというより、最後まで覚醒している感じが続いた。集中しているわけではない。かといって、音楽の流れにただ身を任せて心地よく漂っていたわけでもない、不思議な感覚。社会学的に類型化されたいかなる聴取のかたちにも当てはまらない。様々な形で文化的に、身体的に、そして環境的に条件づけられているであろう「感性の構造」そのものの不思議。
そして、そして、大切な友人と、この時間を共有できたことの幸せ。
リンクは、2台ピアノ版のダイジェスト映像。
CDもリリースされるそうです。素晴らしい音楽、観てたらやっぱり欲しくなってきた。