2015年6月13日土曜日

サイードの『音楽のエラボレーション』

エドワード・サイードの『音楽のエラボレーション(Musical Elaborations)』は、僕にとって大切な書物のひとつで、これまでも折にふれて読みなおしてきた。
学生時代に初めてこれを読んだときと比べて、今改めてこれを読みなおしてみて気づいたのは、昔とはずいぶん、共鳴するポイントが変わってきたということだ。
学生時代は、前半の2章「厳粛な非日常性としてのパフォーマンス」と「音楽における脱領域的要素について」が、とにかく面白かった。とくに、そこで展開されているサイードの思考が、音楽作品を「閉じた」ものとしてではなく、「開かれた」ものとして、社会や歴史的事象との「対位法的読解」を可能にするものとしてとりあつかう上で、さまざまな理論上のヒントや事例を与えてくれるものだったからだ(今振り返ると、読み方が浅かった・・・)

しかし、いま改めて読みなおしてみて、ひしひしと自分自身の問題意識や音楽的思考へと迫ってくるのは、最後の章「旋律、孤独、肯定」だ。伝統芸術としてのクラシック音楽が多様な価値観の共存する現代において、どのような価値を持ちうるのか。クラシック音楽が、ただ権威的なものとしてあるのではなく、その実践のうちに、オルタナティヴな文化的価値を含みうるものであることを、これほどまでに力強い筆致で論じたものを、僕は他に知らない。
もう20年以上も前の本だけれど、そこで取り上げられている問題は、未だに古びることのないもののように思える。

2015年5月11日月曜日

いま一番、熱中していること

体を鍛えることが、本当に楽しい。
トレーニングで得られる達成感は格別なものだ。
努力すれば、体は応えてくれるし、
怠れば、何も得られない。
そのシンプルなところがいい。

一回り、そしてもう一回り、"デカいカラダ" を目指して。



2015年3月9日月曜日

シミオン・テン・ホルトの《カント・オスティナート》

昨日は、飯田橋のアンスティチュ・フランセでBCLというグループのインスタレーション《Oubiopo》を見学した後、浅草のアサヒ・アートスクエアにて、シミオン・テン・ホルト作曲の《カント・オスティナート》(1976〜79)の4台ピアノ版(オリジナル稿)の日本初演を聴いた。ピアノは、向井山朋子、ゲラルド・バウハウス、鷹羽弘晃、新井健歩。
音楽とは何だろう。退屈なパフォーマンスと退屈でないパフォーマンスの違いとは? 何が私たちを音楽の中へと引き込み続けるのか。持続すること、そして変化することとは何か。音楽における時間とは? とどのつまり、音楽を聴くとはいったい何なのか。
演奏が始まる前は、なにか遠足に来たみたいなウキウキした気分で座っていた。会場に客席はなく、聴衆は直に床に座って、曲を聴く。

2時間近く、一切休憩なしで、4台のピアノが演奏し続ける。ブルックナーやマーラーのシンフォニーよりもずっと長いが、音楽そのものに伝統的な意味での展開はない。伝統的な意味でのソロもない。5連符の分散和音を基調としたモーダルなパターンが反復され、そしてゆるやかに、漸進的に変化し続ける。発想としては、ミニマル・ミュージックの延長線上にありつつも、タイトルに示唆されているように、バロック時代の固執低音(バッソ・オスティナート)の技法に近い。時折、2パターンの、キッチュすれすれのメロディアスなフレーズが浮かび上がる。わずかに、ジャン・カルマンによる照明インスタレーションと演出が、光と煙によって、パフォーマンスに最低限必要な儀式的フレームワークを提供する。
作曲は76〜79年。発表当時は、頭の固い批評家や作曲家たちがこの作品に拒絶反応を示したというが、聴衆には受け入れられたとある。ミニマルな手法も、(「人生を変える」とチラシに謳われている)メロディも、当時のポストモダン的文脈においては、それなりの効果を計算しつくした上での創作上の戦略だったのだと思うが、今は違う。21世紀の今日、この音楽を聴くことには、一体どんな意味があるのだろうか。
不思議なことがひとつ。この音楽を聴いた2時間、一瞬も飽きることがなかったということ。車窓の風景を飽きずにずっと眺めているような感覚というか。陶酔するというより、最後まで覚醒している感じが続いた。集中しているわけではない。かといって、音楽の流れにただ身を任せて心地よく漂っていたわけでもない、不思議な感覚。社会学的に類型化されたいかなる聴取のかたちにも当てはまらない。様々な形で文化的に、身体的に、そして環境的に条件づけられているであろう「感性の構造」そのものの不思議。
そして、そして、大切な友人と、この時間を共有できたことの幸せ。
リンクは、2台ピアノ版のダイジェスト映像。
CDもリリースされるそうです。素晴らしい音楽、観てたらやっぱり欲しくなってきた。

2014年11月16日日曜日

ポストホルン・セレナーデ

不勉強とはまさにこのことで、これまでモーツァルトのセレナーデの類いをじっくりと聴いたことがなかった。じっくり聴くべきだという認識をそもそももっていなかったからかもしれない。「機会音楽」とかいう、後付けの便利な枠組みにどこか囚われてしまっていたのだと思う。
ここ2、3日、風邪で自宅に籠っているのだが、起きている間、モーツァルトの「ポストホルン・セレナーデ」を聴いている。というのも、今年1月にリリースされたアーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ヴィーンの録音が面白くてしかたない。モーツァルトの大規模セレナーデが、これほどまでに音楽的な魅力にあふれたものだとは、恥ずかしながら知らなかった。
これはなんというか、日常を祝祭的な劇場空間へと仕立て上げる、モーツァルトの天才的な企て、である(ちなみに、このセレナーデ自体は、ザルツブルク大学の夏学期終了の祝典のために書かれたという・・・18世紀当時の大学の祝典ってどういうものだったのだろう)。シンフォニーに匹敵する内容と規模をもつのはもちろん、劇場という閉じた空間を満たせばよいだけのシンフォニーとは違って、開かれた聴衆と空間全体を演出する必要性から、より大規模で、多彩で、表現においても大胆なものが志向されている(のだと思う)。あの素晴らしい序奏の数十秒で、一気に祝祭的な空間が立ち上がる。雄弁にして軽妙。重厚にして繊細。ソナタ楽章があり、ダンスがあり、コンチェルタンテがあり、オペラの一場面があり、音楽の冗談があり・・・そこにはありとあらゆるものがそろっている。
それにしても、セレナーデのこうした面白さに開眼させてくれるような演奏にこれまで出会うことがなかったのはなぜだろう。ロココ風で、優美なだけの、表面だけをさらりとなぞったような、味気ない演奏が多いからか。祝宴のざわめきの中で聴かれていた(またときに、聞き流されていた)音楽? 確かに。しかし、18世紀当時、ざわめきの華やぎの中で聴かれない音楽など存在しただろうか。そして、これは間違いなく、傾聴し、モーツァルトの豊かなアイデアと天才的な技法を堪能すべき音楽である。
アーノンクールの演奏には、本で学んだことの数倍の説得力がある。なによりも、演奏のちからの偉大さを、いつも感じさせてくれる。
http://www.nikolausharnoncourt.com/de/news/mozart-posthorn-serenade-sinfonie-nr-35-haffner

2014年11月15日土曜日

須賀敦子の「時のかけらたち」

晩年の須賀敦子の、読者の手を突然ふっと放すみたいな、 あの不思議な文章の終わり方は、いったいなんだろう。

まだ、話の途中のような気がするのだけど、でも、文章自体は確かにそこで終わっている。

お話の続きは? またこんどね・・・

昨日、布団の中で、「時のかけらたち」を読みながら、結末をつける、話を閉じることを拒む静かな意志、みたいなものを感じて、なにか勇気づけられたような気がした。

結論、など必要ない。

急ごしらえの、ありふれた、形だけの「結論」など、なんの意味があるだろう。それは欺瞞以外のなにものでもない。

それよりも、未完である、まだ続きがある、というほうが、よっぽど正直で、意味深いではないか。

書き手の良心の問題として。

2014年8月31日日曜日

歌の調べのように



栃木県足利市の「久叡館」でサロンコンサートを開催することとなりました。
お話をまじえながら、僕のお気に入りの歌曲たちを、
学生時代からの友人、声楽家の初谷敬史くんと、
ピアニストの田部井美和子さんに演奏していただきます。
どんなコンサートになるだろう。楽しみです。

<久叡館サロンコンサート vol. 22>
「歌の調べのように Wie Melodien zieht es mir」
2014年9月15日(月・敬老の日)14時半開演(14時開場)
会費:2000円(大人)、1000円(高校生以下)
*おかげさまで、チケットは完売となりました。

お話:向井大策
テノール:初谷敬史
ピアノ:田部井美和子

ープログラムー
シューベルト:「菩提樹」「夜曲」
イギリス民謡(ブリテン編曲):「サリーガーデン」「なぐさめる人もなく」
ブラームス:「歌の調べのように」「野の寂しさ」「間奏曲」op. 117
マーラー:「さすらう若人の歌」 ほか

2014年8月3日日曜日

マーク=アンソニー・ターネジ「This silence」

マーク=アンソニー・ターネジ(Mark-Anthony Turnage)の室内楽作品集「This Silence」を聴いている。

最近、出会った中で、最も素晴らしいアルバムのひとつだ。現代作曲家のCDにありがちな、近作や代表作をただ寄せ集めただけの作品集ではなく、一枚のアルバムとしての完成度がすこぶる高い。

洗練されたジャズのアルバムを聴くのと同じように、考え抜かれた選曲と、美しい演奏(ナッシュ・アンサンブルによる)、そしてまるで自分の隣で演奏をしてくれているような親密なトーンの録音によって、一枚の中に、あるひとつの完成された世界が表現されている。

そこには、一枚のアルバムを通じて、ひとつの「作品」を作り上げようという(もしかしたら、もはや古くさいのかもしれないけれど)作曲者や演奏者、制作者たちの信念とこだわりが感じられるし、何よりも、これをかけている間、ひとりの作曲家の、最も個人的な内面の世界に触れるような、かけがえのない時間を過ごすことが出来る。

ジャズを喩えに出したが、ターネジの音楽を語る上で、実際、ジャズは無視することはできない。彼の音楽には、初期から最新作に至るまで、一貫してジャズの影響が流れている。

正直に言うと、つい最近までターネジという作曲家について、大きな誤解をしていた。タネジと言えば、《3人の絶叫する教皇》(フランシス・ベーコンの「ベラスケス作〈教皇インノケンティウス十世〉による習作」から着想を得た)のような表現主義風のタッチのオーケストラ曲だったり、ジャズやロックの要素を取り入れた、躁気味の派手で落ち着かない感じのものだったり。実際、これまでに録音等で聴くことができた彼の作品には、そういうタイプのものが多いし、数年前、ビヨンセの《Single Ladies》をもとにしたオーケストラ曲(《Hammered Out》)を発表したときには、さすがに悪ノリが過ぎるのではなどとも思った。

そういうわけで、僕はターネジの音楽に対して、ある種の「偏見」を抱いていた。が、このアルバムを聴いて、そうした偏見はすっかり払拭された。

ターネジの音楽は、様々な意味で、現代のロンドンの風景そのものを映し出しているような音楽だと思う。伝統文化と現代的な都市生活、ハイブラウなものとポップなものが共存し、多種多様な人びとが行き交う。このアルバムに収められた作品が全体的に夜の雰囲気をたたえているのは、タネジの音楽全般に共通する特徴だが、それはナイトクラブの喧噪の中にあるというよりも、誰もいない都会の静寂に近い。その静けさの中に、私たちは彼自身の親密な、内奥の声を聴く。

収録曲は、以下の通り。

This silence for Octet (1992-3)
True life stories for solo piano (1995-9)
Slide stride for piano and string quartet (2002)
Two Baudelaire songs for soprano and seven instruments (2004)
Eulogy for viola and eight instruments (2003)
Two vocalises for cello and piano (2002)
Cantilena for oboe and string quartet (2001)

The Nash Ensemble
Sally Matthews, soprano
Catalogue No: ONYX4005

ピアニストの人には、このアルバムに収められた《True Life Stories》を聴いてほしいし、ぜひ演奏してみてほしい。彼の家族や個人的な友人たちに捧げられた小品集で、終曲は作曲した年に死去した武満徹へのオマージュとなっている。

声楽家の方は、ぜひ《2つのボードレールの歌》を演奏してください。僕は現代作曲家の書いた歌曲でこれほど抒情的で美しい曲に未だかつて出会ったことはありません。弦楽器の人は、《2つのヴォカリーズ》(チェロとピアノ)を。

でも、個人的に一番いいなと思うのは、アルバムのタイトルにもなっている室内楽曲《この沈黙》(八重奏)。特に、第2楽章の〈哀歌〉。

とにかく、ターネジの音楽をライヴで聴くチャンスというのは、日本で暮らしている限り、絶望的に少ない。生で聴きたければ、ロンドンに行くか、それともどこかで自分で企画するか・・・。どなたか興味のある方、いませんか???


http://www.onyxclassics.com/cddetail.php?CatalogueNumber=ONYX4005