2015年7月28日火曜日

学食の思い出

大学時代の先輩が、Facebookに学食の写真を載せていて、そのメニューの変わらなさぶりに驚いた。そして、その写真を見ただけで、15年以上前に自分が食べていた頃の味や衣の食感や、いろんなものがよみがえってきて、なんともいえない幸せな気分になった。

いや、けっして、ものすごく美味いというわけではない。ハンバーグと揚げ物、そして麻婆豆腐やグラタン、マカロニサラダなどの組み合わせからなる日替わりの定食は、女子学生の中には、脂っこくて量も多くて食べられない、という子は多かった。でも、僕らはそのどうしようもないカロリーオーバーな定食を毎日食べ、そして誰も口には出さなかったけれど、心から愛していた。

消費主義的傾向の強い、そして、何かにつけて自己変革を求められるこの世の中であれば、学生アンケートとかが実施されて、サラダランチを作ってください、などという「要望」すら出てきてもおかしくない。

しかし、写真を見る限り、そういう「改善」や「改良」をした痕跡はほとんど見られない(刻みキャベツの量の少なさ具合も変わらない)。メニューにこだわりがあるから頑なに続けている、のではおそらくない。というよりも、むしろ、そうしたことに無頓着、無関心なだけだろう(もしかしたら、卒業生が懐かしんでくれるようにという愛情もちょっとは入っているのかも)。

でも、その無頓着さ、世の流れへの無関心さが、かえって何かとても貴重なものに思える。

そこへ帰って来れば、昔と変わらないものが、平凡として、そこにあるという、当たり前の幸福感。人の人生において、「学校」というものに何かの意味があるとすれば、その変わらないということそのものの平凡さが、世の中の流れにはあくまでも無頓着に、そこにあり続けることにあるのではないか。そして、社会の中で、変わらずにあることが許容される場である、ということにあるのでは。そのどうしようもなさも含めて。

いろいろ、と思う。

2015年7月20日月曜日

未来への責任

安保法制に反対する「SEALDs」の運動が注目を集めています。彼らの言葉は、どれもまっすぐで、わたしたちの心を打つものがあります。

「わたしは、戦争で奪った命を元に戻すことができない。空爆で破壊された街を建て直す力もない。自分の責任の取れないことを、あの首相のように『わたしが責任を持って』とか、威勢のいい言葉にごまかすことなんてできません。」

未来の世代にどのような日本を、どのような世界を残すことができるのかをひとりひとりがまっすぐに考える(想像する)こと。それがわたしたちに課せられた責任です。

「虚無的なリアリズム」に囚われることなく。