2015年6月13日土曜日

サイードの『音楽のエラボレーション』

エドワード・サイードの『音楽のエラボレーション(Musical Elaborations)』は、僕にとって大切な書物のひとつで、これまでも折にふれて読みなおしてきた。
学生時代に初めてこれを読んだときと比べて、今改めてこれを読みなおしてみて気づいたのは、昔とはずいぶん、共鳴するポイントが変わってきたということだ。
学生時代は、前半の2章「厳粛な非日常性としてのパフォーマンス」と「音楽における脱領域的要素について」が、とにかく面白かった。とくに、そこで展開されているサイードの思考が、音楽作品を「閉じた」ものとしてではなく、「開かれた」ものとして、社会や歴史的事象との「対位法的読解」を可能にするものとしてとりあつかう上で、さまざまな理論上のヒントや事例を与えてくれるものだったからだ(今振り返ると、読み方が浅かった・・・)

しかし、いま改めて読みなおしてみて、ひしひしと自分自身の問題意識や音楽的思考へと迫ってくるのは、最後の章「旋律、孤独、肯定」だ。伝統芸術としてのクラシック音楽が多様な価値観の共存する現代において、どのような価値を持ちうるのか。クラシック音楽が、ただ権威的なものとしてあるのではなく、その実践のうちに、オルタナティヴな文化的価値を含みうるものであることを、これほどまでに力強い筆致で論じたものを、僕は他に知らない。
もう20年以上も前の本だけれど、そこで取り上げられている問題は、未だに古びることのないもののように思える。