2014年11月16日日曜日

ポストホルン・セレナーデ

不勉強とはまさにこのことで、これまでモーツァルトのセレナーデの類いをじっくりと聴いたことがなかった。じっくり聴くべきだという認識をそもそももっていなかったからかもしれない。「機会音楽」とかいう、後付けの便利な枠組みにどこか囚われてしまっていたのだと思う。
ここ2、3日、風邪で自宅に籠っているのだが、起きている間、モーツァルトの「ポストホルン・セレナーデ」を聴いている。というのも、今年1月にリリースされたアーノンクールとコンツェントゥス・ムジクス・ヴィーンの録音が面白くてしかたない。モーツァルトの大規模セレナーデが、これほどまでに音楽的な魅力にあふれたものだとは、恥ずかしながら知らなかった。
これはなんというか、日常を祝祭的な劇場空間へと仕立て上げる、モーツァルトの天才的な企て、である(ちなみに、このセレナーデ自体は、ザルツブルク大学の夏学期終了の祝典のために書かれたという・・・18世紀当時の大学の祝典ってどういうものだったのだろう)。シンフォニーに匹敵する内容と規模をもつのはもちろん、劇場という閉じた空間を満たせばよいだけのシンフォニーとは違って、開かれた聴衆と空間全体を演出する必要性から、より大規模で、多彩で、表現においても大胆なものが志向されている(のだと思う)。あの素晴らしい序奏の数十秒で、一気に祝祭的な空間が立ち上がる。雄弁にして軽妙。重厚にして繊細。ソナタ楽章があり、ダンスがあり、コンチェルタンテがあり、オペラの一場面があり、音楽の冗談があり・・・そこにはありとあらゆるものがそろっている。
それにしても、セレナーデのこうした面白さに開眼させてくれるような演奏にこれまで出会うことがなかったのはなぜだろう。ロココ風で、優美なだけの、表面だけをさらりとなぞったような、味気ない演奏が多いからか。祝宴のざわめきの中で聴かれていた(またときに、聞き流されていた)音楽? 確かに。しかし、18世紀当時、ざわめきの華やぎの中で聴かれない音楽など存在しただろうか。そして、これは間違いなく、傾聴し、モーツァルトの豊かなアイデアと天才的な技法を堪能すべき音楽である。
アーノンクールの演奏には、本で学んだことの数倍の説得力がある。なによりも、演奏のちからの偉大さを、いつも感じさせてくれる。
http://www.nikolausharnoncourt.com/de/news/mozart-posthorn-serenade-sinfonie-nr-35-haffner

2014年11月15日土曜日

須賀敦子の「時のかけらたち」

晩年の須賀敦子の、読者の手を突然ふっと放すみたいな、 あの不思議な文章の終わり方は、いったいなんだろう。

まだ、話の途中のような気がするのだけど、でも、文章自体は確かにそこで終わっている。

お話の続きは? またこんどね・・・

昨日、布団の中で、「時のかけらたち」を読みながら、結末をつける、話を閉じることを拒む静かな意志、みたいなものを感じて、なにか勇気づけられたような気がした。

結論、など必要ない。

急ごしらえの、ありふれた、形だけの「結論」など、なんの意味があるだろう。それは欺瞞以外のなにものでもない。

それよりも、未完である、まだ続きがある、というほうが、よっぽど正直で、意味深いではないか。

書き手の良心の問題として。