2013年7月20日土曜日

「弱さ」を引き受けるということ




うちの近所は、今日も盆踊り大会です。ちなみに今日で3日連続。平和な土曜日です。

で、外から聞こえてくる「東京音頭」などにぼんやりと耳を傾けながら、「あー、明日は日曜日かあ」、などと考えているうちに、昔、大学院時代にゼミで読んだ、イタリアの哲学者ジャンニ・ヴァッティモの「弱い思考 pensiero debole」のことを、ふと思い出しました。えーっと、もう10年ちかくも前のことになるのか。なつかしい。


「弱い思考」って言っても、「思考力が弱い」っていう意味ではないですよ。ここで言う「弱さ」には、肯定的な意味合いがあります。ヴァッティモが言う「弱さ」というのは、簡単に言えば、他者を認めることであり、多様性を肯定することなのです。


それで、ヴァッティモが言っていることと少しずれてしまうのかもしれないのだけれど、いまのわたしたちに必要なのも、自分たち自身の「弱さ」を素直に引き受けることではないかな、などと、ちょっと思ったのです。


自分は弱いと認めれば、他者を認めることができる。相手の立場にたって考えることもできる。


しかし、「いんや、自分は強いんだ」、などと空威張りしている間は、それは無理なんじゃないかな。何だか、このところ、そこら中で、きな臭い言説が跋扈していますが、最近のわれわれの社会が取り憑かれている「病い」の根っこは、そこにあるのではないか。


僕の暮らす界隈は普段はいたって平和なところですが、そんな町に暮らしていても、このあいだ、交差点の向こう側に、プラカードをもって、旧日本軍の兵隊のような格好をした青年が立っているのを見たときは、ぎょっとしました。どこかで排斥主義のデモにでも参加してきたんでしょうね。


あるいは、社会のあちらこちらで表面化している、何だかギスギスした感じ。でも、「景気」が良くなれば、それがなくなるという感じでもない(むしろ悪化するような)。そして、ひとびとを分断し、他者への敵意をあおるような言説が政治家たちから発せられたりする。わたしたちの社会が、包容力を失ってしまっている証しなのではないか。


自分たちの社会の多様性をまっすぐに見つめ、そこに生きるさまざまなひとびとの「生」を肯定すること。こう書いてみると、拍子抜けするぐらいに当たり前のことです。でも、その当たり前が難しくなりつつあるという現実がある。いまのわれわれにとって、社会の基盤は、そうした多様さを包含することができる大らかな「弱さ」にあるべきなのではないかなあ、などと考えてみたわけです。


えー、「東京音頭」の次は「炭坑節」ですか。楽しそうだなあ。思い切って、飛び入り参加してみようか。


いつまでも、ひとびとが自由に、踊りを踊ったり、音楽を楽しんだりできる社会であってほしいな。ごくごく素朴な願いですが…。


2013年7月5日金曜日

"I hear those voices that will not be drowned"



写真は、去年、サフォーク州のオールドバラ近隣の小さな町、オーフォードに行った時に、波止場からとった一枚。オーフォードのあたりは、オルド川下流域(オー川 River Ore)の潮のさす干潟と、曲がりくねった入り江が独特の風景を作り出している。遠くに見えているギリシア神殿みたいな影は、かつて核兵器研究所(AWRE)の実験施設だった建物。もちろんいまは使われておらず、廃墟になっているが、このあたりには、他にも第二次世界大戦中や冷戦時代の遺構が点在しているという。

アレックス・ロスの『The Rest is Noise』にも引用されていた、W. G. ゼーバルトの『土星の環』を寝るまえに読んでいる。ブリテンも暮らしたサフォーク州一帯を徒歩で旅をしたドイツ人作家の随想である。その中に、このオーフォードに関する印象的な一節を見つけた。

「男はオーフォード岬にはいまでも近寄る者はいない、と話をした。孤独にはだれよりも馴染んでいるはずの漁師たちすら、二度か三度オーフォード岬の近くで夜網を張ってみたあとはぷつんとやめてしまう。口では魚がかからないからと言っているが、本当はそうじゃない、無のどまんなかに投げ出されたような場所のすさまじい荒寥に耐えきれなくなるからだ。」(W. G. ゼーバルト『土星の環』221頁、鈴木仁子訳)

「無のどまんなかに投げ出されたような場所のすさまじい荒寥」ーーまるで、《ピーター・グライムズ》の主人公の心象風景みたいじゃないか。



もう一枚は、オールドバラの浜にたつ、ブリテンの記念碑。《ピーター・グライムズ》から「I hear those voices that will not be drowned」(第2幕第2場)というピーターの台詞が刻まれている。